本物のピラティスを学びたい方へ贈る【ピラティスの歴史・真髄・哲学】

受け継がれるピラティスの歴史・哲学・真髄

創始者ジョセフ・ピラティス

ピラティスメソッドとは何か。

ピラティスメソッドとは何か。
今や世界的に有名となったこのメソッドは、ドイツで生まれた
Joseph Hubertus Plates(ジョセフ・ヒューバータス・ピラティス)によって考案された、
ボディ・マインド・スピリットを統合させることを強調したボディコンディショニング法の1つです。
このメソッドを開発したピラティス氏自身は、彼のメソッドを「コントロロジー」と名付けました。
それは、マインドによる身体の完全なコントロールを得て、それを適切に繰り返しながら
バランスよく発達した身体を作り上げること。そして、最終的には無意識の活動全てと結びつき、
人間が本来持っている身体のリズムや整合性を習得するようにプログラムされています。
今やこのピラティスメソッドは、フィットネス分野だけではなく、病院、老人ホーム、リハビリテーションセンターなど、多岐に渡り世界中で取り組まれるようになりました。

ピラティスの創始者 
ジョセフピラティス 概歴

ピラティス氏は、1883年にドイツの小さな街Mönchengladbach(メンヒェングラートバッハ)で生まれました。幼少時代はリウマチ熱、くる病、喘息などを患い非常に病弱だったと言われています。彼は、体操選手やボクサーとしても活躍していた父の影響を受け、街にあったスポーツセンターで、体操やボクシング、禅、ヨガ、スキーなど、あらゆるトレーニングに取り組み鍛錬を重ねました。14歳の頃には彼の身体は十分に発達し、解剖学書や芸術家の身体モデルにもなるほどでした。

このように身体を鍛錬することに非常に熱心だったピラティス氏は、1914年に第一次世界大戦が勃発した時にはイギリスでボクサー及び護身術の指導者として働いていました。その際に彼は敵国の異邦人だと見なされ、マン島での拘留生活を送ることになったのです。
 マン島では、彼自身が日々取り組んでいたワークアウトを、他の拘留者と一緒に取り組むようになりました。1918年にはインフルエンザが世界的に大流行し拘留所でも深刻な事態となりました。ですが、彼と一緒にワークアウトに取り組んでいた人は誰一人感染しなかったことを、後年になり誇らしく語っていたと言います。

さらにマン島では看護師として働き、負傷者にとってどのようにすれば寝たままで身体を強化し、機能を改善させられるかを考えました。その結果、ベッドのマットレスのスプリングを取り外してオリジナルのリハビリのためのトレーニング器具を創り出しました。これは、後にキャデラック(またはトラピーズテーブル)と呼ばれるようになったピラティス専用器具の基盤となっています。ピラティス氏は、その後も生涯においてクライアントに必要な器具を数多く発明ししていきました。

戦争が終わりドイツへ帰国した彼は、1926 年にニューヨークへ渡りました。そして自分の考案したエクササイズを広めるため、ニューヨークにスタジオを開きました。彼のメソッドは怪我から多くの人々を奇跡的に回復させ、ダンサー達を中心に徐々に噂が広まり、素晴らしい結果を残していきました。ピラティス氏は、この画期的なメソッドが医学の世界や学校教育にも取入れられることを強く望んでいました。そして、すべての人が生涯の健康のため、このメソッドに取り組むべきだと信じていました。しかし当時はまだ、この機能的なエクササイズを受入れてもらうことが難しく、非常に落胆していたと言います。そして、その無念の想いを「僕のメソッドは50年はやすぎた」という言葉で表現していました。

受け継がれ、世界に広がる
ジョセフピラティスの教え

さて、ジョセフ・ピラティスが1967年に亡くなった後、妻のクララ・ピラティスと弟子の一部がスタジオを継続しましたが、ジョセフもクララも、遺言を残すことをしませんでした。このため、二人の死後は混乱が起こりました。「ピラティス」という用語がしばらくの間、知的財産権として一つの団体に保有されていました。そして、2000年になり裁判で「ピラティス」が一般用語として認められると、誰もが「ピラティス」という用語を使えるようになりました。これを機にピラティスメソッドは爆発的な広まりをみせ、世界各国で多くのピラティス団体も急激に増加したのです。

これを機に、2000年にPMA(Pilates Method Alliance/ピラティスを遺産として保護していくための非営利団体)のはじまりとも言える第1回目の会合が、マイアミで開催されました。その際に、ジョセフ・ピラティスから直接指導を受けた4名、ロリータ・サン・ミゲェル、メアリー・ボゥエン、ロン・フレッチャー、キャッシー・グラントが「エルダー」と任命されました。

さらに現在では、ジョセフ・ピラティスの元で熱心に修行をしてきた指導者として、上記の 4 名の「エルダー」に加えて、カローラ・トリエー、ロマーナ・クリザノウスカ、イブ・ジェントリー、ブルース・キング、ボブ・シードが第一世代ピラティス・ティーチャーと言われています。

また、ジョセフ・ピラティスは、生涯で2名だけ公式にピラティスメソッドの認定者を出しました。エルダーであるロリータ・サン・ミゲェルとキャッシー・グラントが、1967年2月2日にニューヨーク州立大学を通してピラティスメソッドの全てを指導できる教育者として認定されました。

現在では、体の動きのシステムを体系的に行うピラティスは、エクササイズそのものとしての価値のほか、プロスポーツやあらゆるリハビリ的役割として大変効果的であることが証明されて、世界中の多くの分野で取り入れられています。
さて、このメソッドの創始者ジョセフ・ピラティス氏の願いとは何だったのでしょうか。
それは、「コントロロジーを通して、全ての人の健康と平和な社会」でした。
このようなジョセフ・ピラティスの信念や哲学の詳細については、Lolita’s LegacyTMでは重要項目として受け継がれています。

ジョセフ・ピラティスの公式認定者
ロリータ・サン・ミゲェル

Chapter 1

ダンサーとしての
輝かしい功績

ロリータはプエルトリコ人の両親を持ち、1934年10月9日にニューヨーク市で生まれました。3歳の時にプエルトリコへと移りダンスの勉強をはじめ熱狂的になり、11歳ではスクール・オブ・アメリカン・バレエの夏期コースに参加するため、ニューヨークへ行きました。ニューヨークに到着してから4日後に父親が心臓発作で亡くなり、その際母親は、ニューヨークに残る決心をしました。ロリータはここでバレエを学ぶと同時に、スパニッシュダンス、モダンダンス、ジャズダンスなどバレエ以外のダンスやピアノの勉強もしました。ロリータは、アートと教育を融合させるコンセプトの先駆けとなった素晴らしい環境、パフォーミング・アーツ・ハイスクールを卒業しました。その後もトップスターと呼ばれるダンサー達と共演を果たし、各地でそのパフォーマンスを披露するなど、幼少期からはじめたダンスで輝かしい実績を積み重ねてきました。そして同時に、身体のプロフェッショナルとしての学びと経験を積み重ねてきました。

Chapter 2

ピラティスメソッドとの
出会い

1958年にダンスでのアクシデントによる膝の怪我に悩まされました。その時に訪れた病院の医師に、カローラ・トリエーの元でピラティスに取り組むことを勧められました。これが、ピラティスとの運命の出会いでした。カローラは、ジョセフ・ピラティスの弟子の中ではじめて自分のスタジオを開設して指導をしていました。ロリータは熱心に通い結果驚異的な回復を見せ、3ヶ月で舞台復帰を果たしました。これをきっかけにピラティスの熱狂的なファンになりました。その後、7年もの間熱心に通い続けたある日、カローラから「ピラティスの指導者にならないか」と声をかけられました。これを機に、世界初となる資格取得のためのトレーニングがはじまりました。毎週20時間6ヶ月に及ぶ520時間の見習い生活に取り組み、ニューヨーク州立大学後援のもと、カローラから公式な認定を受けた世界唯一の人物となりました。カローラから認定を受けたのは、後にも先にもロリータだけとなっています。

Chapter 3

ジョセフ・ピラティスの
公式な認定者へ

その後、カローラのスタジオでアシスタントをしていたキャッシー・グラントに、ジョー(ジョセフ・ピラティス)のところに行こうと誘われました。ロリータは、‘ミスターピラティス’はすでに他界しているものだと思い込んでいたので非常に驚き、二人ですぐにジョーのところに向かいました。はじめてジョーに会った時の印象を「白髪で黒いパンツと白いタートルネックのシャツを着た、非常に個性的な人物だった」と話しています。そして今度はジョーから直接学ぶことになったのです。ロリータとキャシーは、ニューヨーク州立大学の職業転換プログラムを利用し、ジョーの元での修行をスタートしました。そして、ここでもまた週20時間6ヶ月、520時間に渡り修行を続けたのです。ジョーの元で修行している間、残りの時間をカローラのスタジオで過ごすというさらにピラティス漬けのハードな日々を送りました。またジョーから直接、このメソッドへの信念や哲学について、多くのことを教えられました。こうして世界でロリータとキャッシーの2名のみが、1967年2月2日ニューヨーク州立大学を通してジョセフ・ピラティスが考案したピラティス・メソッドの公式な認定者となりました。

Chapter 4

ピラティスの
真の継承者として

その後、1977年に両親の祖国であるプエルトリコに移りバレエ団を設立しました。このバレエ団では4歳からプロのダンサーに至るまで全ての団員に毎日ピラティスを指導しながら自らも実践し、2005年にバレエ団の芸術監督を引退する70歳まで続けました。引退後は、ピラティス氏からの直接の認定者であり、かつ70歳まで熱心に取り組み続けたロリータは、世界中からのオファーに後押しされ、世界規模でピラティス・メソッドを教えることに時間とエネルギーを捧げてきました。

2009年には、ロリータ・サン・ミェゲル・ピラティス・マスター・メンタープログラムをスタートし、六大陸全てから熱心なプロフェッショナルなピラティス指導者が集まってきました。このトレーニングを通して「Lolita’s Disciples(ロリータの愛弟子)」が誕生し、ジョセフ・ピラティスから継承してきたロリータの遺産を、弟子たちが受け継いでいくようになりました。

Chapter 5

ピラティスの功績を
後世へ

2009年5月にはこのプログラムをヨーロッパで初めてスタートし、その際にジョセフ・ピラティスの生誕地であるメンヒェングラートバッハを訪れ、ピラティス・デイを祝いました。その時ロリータは、ジョセフ・ピラティスが彼の生まれ故郷では全く知られていないことを知り、大変なショックを受けました。ロリータの情熱は非常に深く、市役所を訪れ彼の功績を説明し、ジョセフを偲ぶ記念碑の設置場所について話を進めました。そしてついに、「私の人生にとって、最も忘れ難い瞬間のひとつ」と言う、2011年5月7日を迎えました。ロリータの働きかけにより大勢のピラティス指導者、愛好者、ロリータの愛弟子によって、ジョセフ・ピラティスが生まれた地に、功績を称えるピラティス氏の碑が設置されたのです。記念碑の除幕はメンヒェングラートバッハ市長ノルベルト・ブーデ閣下によって行われ、そこには多くの市役所員や、現在でもメンヒェングラートバッハに住むジョセフ・ピラティスの甥の孫であるウルフギャング・ピラティスも参加しました。そして今では、町の皆がジョセフ・ピラティスの功績を知るようになりました。現在ではInternational Pilates Heritage Congress*として2年に一度継続して開催されています。

Chapter 6

発展させ続ける

このように、83歳になった今でも世界規模でピラティス・メソッドを教えることに全精力を注ぎ続け、かつピラティスの体現者として世界のトップを走り続けています。また、ピラティス氏から受け継いだものを確立し発展させる一方で、最新の科学を率先して学び取り入れて来ました。2012年のPMAで発表したピラティス指導者養成コースLolita’s LegacyTMでは、現代人の身体症状に合わせた解剖学書もつくり、身体の知識だけではなく現代人が抱える問題も明らかにしました。そして、真髄と最新を両立することで現代人にとって強力に役立つプログラムとして発展させました。このようなロリータの在り方こそが、この先の未来も、ピラティスの本来の価値を失うことなく発展させ続けるための足がかりとなるでしょう。

ピラティスの生みの親
"ジョー ピラティス" 直系
「第二世代ピラティスティーチャー」
櫻井淳子

元物理化学研究者。妊娠・出産における体調不良時にピラティスに出会う。
日本でも世界と変わらないピラティスの真髄を伝えたいという信念のもと本場米国にてトレーニングを重ね、世界を代表するマスターティーチャー達から学び続ける。
さらに、エルダー(ピラティス氏直弟子)の一人であり、かつ現在では世界で唯一のピラティス氏からの認定者として活動しているロリータ・サンミゲェルより第二世代ピラティスティーチャーに認定される。
アジアで初めてのLolita’s Legacyのエデュケーターとなり、ジョセフ・ピラティス及びクララ・ピラティスから直系のピラティスの真髄を国内へ普及させるために勢力的に取組んでいる。
その後、ロリータ・サン・ミゲェルより、公式な継承者として世界の5名のうちの一人に任命され、米国の本部役印として国際的に活動している。
ピラティスの第一人者として、自社スタジオの他、指導者の育成、各種講師、スタジコンサルティング、メディア出演等、ピラティスを通して全国的に活躍。

  • ピラティスの遺産”ロリータズ・レガシー”継承者
  • ロリータ・サン・ミゲェルの公式継承者
  • 公式第二世代ピラティスティーチャー
  • NEXT AWARD 2021&2010 最優秀賞2度受賞(国内唯一)
  • SilkSuspension™導入、Stretch-eze®導入
  • ピラティスメソッドジャパン株式会社代表取締役
  • 「ピラティスバイブル」上梓

2005/9

妊娠~育児
ピラティスとの出会い

もともと物理化学研究者だったわたしは、生涯理工系の道を進むつもりでいたが、結婚を機に静岡県沼津市に移住。急な環境変化に加え、妊娠により酷い体調不良に陥る。出産までの10ヶ月間は寝たきり生活を余儀なくされ、妊婦でありながら精神安定科にも移送されるほど心身の健康を酷く崩し、薬を多用するなど、心身ともに酷い状況に追い込まれた妊娠生活となった。
何とか無事に出産したものの、子育てをする体力もなければ気力すらない日々。体調は回復する事なく、乳児を見ては何もできずに呆然とし、育児すらできない状況に悩む日々が続く。そんな中、せめて体力だけでもつけようと藁をもつかむ想いで購入したエクササイズの本が、偶然にもピラティスとの出会いだった。

その本で出会った、運命の言葉。

  • はじめの10 レッスンで気分がよくなり、
  • 次の10 レッスンで見た目がよくなり、
  • 最後の10 レッスンで新しいカラダに生まれ変わる。
ジョセフ・ピラティス

この言葉に心奪われ、まずは30日間、一日も休まず取組んでみることに。気がついたら、あんなに毎日かかさず飲んでいた薬が不要になっていることに驚く。さらに90日間休まず続けると、身体が引き締まり、育児でのひどい肩こりや腰痛、深刻だった不眠からも解放される。そして、驚くほど活力が溢れた身体に生まれ変わっていた。
まさに、奇跡の体験だった。身体を動かすことで、こんなにも人としての在り方が変わるんだ。生きることは活力に溢れ、毎日自然に笑顔がうまれ、自分らしくいられることなんだと実感し、ただ驚くばかりだった。これまでの、頑張って何かをすることとは、全く異なる感覚だった。
こんなに素晴らしいメソッドを、多くの人と共有したい。その想いだけで、ピラティスインストラクターへの転身を決意する。

2006/2

ピラティス学びの
旅がはじまる

だが、現実は簡単ではなかった。生まれたばかりの乳児をかかえ、不在続きの夫、共働きの実家。その上、そもそもピラティスを学ぶ環境が近くにはなく、金銭的な問題も大きくのしかかる。
どうにもならない環境に思えた時、ある想いがこみ上げてきた。
こんな状況だからこそ、もしも、これらの課題を乗り越えてピラティスをこの地に持ってくる事ができたなら。多くの人の役立てるのではないだろうか。遠くに行かなくても、自分の街で最高のピラティスができたら、どんなに素敵だろう。
何もない今だからこそ、最高のピラティスをこの地域に普及させよう。そう決心し、育児と金銭的工面、習得を両立し、あらゆる課題に立ち向かいながら、24時間態勢でのピラティスの学びの旅がはじまった。

2007/9

広がり始めた
ピラティスマジック

ピラティスを熱心に学ぶ中、どうすればより多くの人の役に立つ事ができるようになるのだろうか。そう考え続けた結果、いつしか複数団体の資格を持つようになっていた。
そして、周囲では素敵なピラティスマジックが起こりはじめた。
まず、ママ友が元気になり笑顔が増えはじめた。子どもが幼稚園に入ると小さな公民館で教室をスタート。身体が楽になった、ピラティスをやると元気がでる、という人達が増えはじめた。それが口コミで広まり、小さな教室は週に2回満席になっていった。
さらに、育児をしながらピラティスを学ぶ事に苦労した経験をもとに、子連れクラスをスタート。すると、キャンセル待ちが出る程の申込が殺到することに。たくさんのママが、自分自身が元気でいることで楽しい育児生活ができるんだと気づきはじめたのだ。
そんな中、学びはますます加速。わずかな時間を見つけては遠方へ学びに走り、最高のピラティスをさらに追い続けた。

2011/11

沼津から世界への一歩

それ以来、「ピラティスを学ぶこと」から、「どこで、誰から、ピラティスを学ぶか」ということに、想いがシフトして行く。
本当に良いものを伝えたい。ピラティス氏の真髄に近づきたい。
2010年に初来日したPat Guyton氏のワークショップを受けた時、探し続けたものがここにあったと、何日も眠れない程の衝撃を受けた。ピラティス氏の4人の直弟子から学び、世界のピラティス界を牽引しているPat Guyton氏からは、ジョセフ・ピラティス氏はどう取組んでいたのか。直弟子達はどう伝えていたのか。教科書のどこにもない、生きた言葉が詰まってい た。そして、どうすることが人の体にとって最も良いのかについて、サイエンスで明確に取組む姿が脳裏に焼き付く。
ここで学びたいと思い詰め、直談判をスタート。長い調整の結果2011年よりPat Guyton氏の本拠地であるコロラド州ボルダーにてトレーニングを開始し、今でも続いている。

2010/9

スタジオ設立と
最優秀賞受賞

またこの頃、地元のピラティス専門スタジオが立て続けに2店舗とも閉店した。地方都市ではピラティス専門スタジオは成り立たないと定説が流れ、日本でのピラティス第二ブームも終盤を迎え有名スタジオの運営すら厳しいとの声があがっていた時期でもある。
そんな中、2010年9月PILATES BODY Studio オープンを決意。ピラティスの本当の素晴らしさは、まだまだ日本国内にも伝わっていない。それを伝えることができたなら、小さな街でも成り立つのではないかと確固たる信念を持ち、地方都市では当時珍しかったマシンも揃ったスタジオを設立。有名トレーナーを招致して、地方都市では珍しくピラティスの指導者を 育成するなど、都内と変わらない環境を実現した。当時子どもは3歳。小さな子供を連れまわしての物件探しや各種打合せに奔走し、深夜までスタジオ準備に取組んだ。
育児をしながらの深い学びや、地方都市にピラティスの文化を根付かせ発展させたことなどが評価され、フィットネス業界誌NEXTにて、インストラクター・オブ・ザ・イヤー最優秀賞を受賞。地方都市から、かつ女性として初の最優秀賞だった。

2013/9

ニューヨークから日本へ
メソッドの導入

ピラティス発祥の地は、ニューヨーク。やはり、ニューヨークのピラティス事情は外せない。そして、ニューヨークには、今でもジョセフ・ピラティス氏が生活し、実際に指導していた場所も、新しいオーナーにてスタジオと運営されている。また2000年以降爆発的に広まったピラティスは、NYでもスタジオが生ま れては消えて行くという現状も続いている。
切瑳琢磨されるNY環境の中、卓越しているスタジオでの専門的なトレーニングにも継続的に取組み、スタジオ視察等を重ね、日本とニューヨークの文化の違いについて観察し、どうすれば日本人にとっても、最も良い方法でピラティスを提供できるかについて想いを深める。それを、自社スタジオにて展開。
また、ニューヨークPilates on FifthにてSilkSuspensionにも出会い、日本ではじめてSilkSuspensionプログラムを導入。これまでのトレーニングの常識を覆す、「楽しさ」に溢れた取り組みを実現した。

2014/4

アカデミー部門設立

ピラティスについて勢力的に活動を続ける中、世界的にも有名なピラティス団体のマスタートレーナーになるチャンスが巡って来た。インストラクターとしては、願い続けた大チャンスだった。
だが、「本当に人の役にたてる最高のものは何か」「身体に矛盾のないサイエンス」「ピラティスメソッドについての、真の歴史と哲学」。これらを日本で普及させるためには、まだその先を学ばなくては行けないことも感じていた。
素晴らしいチャンスに感謝すると同時に、自分は何をしたいのか。考え抜いた結果、最高に良いと思えることを伝えられる環境を作ることを選択。マスタートレーナーへの機会を辞退し、エルダーであるロリータ・サン・ミゲェルの元でのトレーニングを決意した。また、いつか最高のものを皆に提供できる場を設けようと、想いを実現するために「アカデミー部門」を設立。コンセプトは、ピラティスをはじめ続けるために、最も大切なことが学べるアカデミー。これまで多くの困難を越え、国内外に足を運んで得た全てを、ここに注いで行こうと決心した。

2014/8

第二世代
ピラティスティーチャー
として

ジョセフ・ピラティス氏の直弟子は約8名いたと言われており、第一世代ピラティスティーチャ、または、エルダーと呼ばれている。しかしどのエルダーも高齢であり、現在では2名になってしまった。このままでは、ピラティスを「生」で知っている人達から学ぶ事ができなくなってしまう。今しかないと思い詰め、2014年より、ジョセフ・ピラティス氏の直弟子という立場だけではなく、世界で2名だけピラティス氏から資格認定も受けた、ロリータ・サンミゲル氏の元でのトレーニングを決意した。
とは言っても入門するだけも非常に高いハードルがあり、海外での度重なる修行で乗り切り、なんとか門をくぐることができた。
しかし、はじまってみると最初は絶望的とも言える状況だった。通じない、理解もできない英語と、どんどん進むロリータの教え、要求される高いレベル・・・。どれもが絶体絶命のような状況の中、自分の情熱とロリータのパッションで、ここで絶対に学び抜くと決意。またゼロから、四六時中ピラティスに明け暮れた。
ここで大きく成長を遂げ、2015年8月には「第二世代ピラティスティーチャー」及び「ロリータ・サン・ミゲル ピラティスマスター」として認定され、さらに国内初のLolita’s Legacy Educatorとなった。

2014/9

スタジオリニューアル
オープン

2014年9月。移転及び完全リニューアルオープンを実施。ピラティスの歴史、真髄など、まだまだ日本には伝わり切れていない大切なことに取組めるスタジオを目指して設立。ジョセフ・ピラティス氏の存在を感じる空間、かつピラティス用具が活き活きと存在し、世界一と言われるトラピーズ・テーブルも導入。また、ニューヨーク発の人気プログラムSilkSuspension™サテライトスタジオとしての設備も備え付けた。
スタジオ名に挙げている「PILATES BODY」には、ジョセフ・ピラティス氏が提言していた「ココロとカラダの状態が整い、家族や仲間など大切な人と人生を楽しみ、幸せなライフスタイルを体現している在り方」と言う意味を込めている。

2016/9

ピラティスの真髄を
後世へ

世界中でピラティス団体が加速度的に増えた昨今。「そもそもピラティスとは何であるか」という疑問が多く聞かれるようになった。今こそ、「私たちが取組んでいるピラティスとはいったい何か」について理解するために、ピラティスの真髄や哲学を知る時であろう。
ロリータ・サン・ミゲェルがピラティスからの直接の教えと彼女自身のプロフェショナルな60年にも及ぶ取り組み、そして最新の科学を融合させた「Lolita’s Legacy」を、日本に初導入した。2016年には、日本人としてはじめてのLolita’s Legacy Educatorとして、世界でも最も由緒あるピラティス指導者養成コースをスタート。
第二世代ピラティスティーチャーとなった今、ジョセフ・ピラティス及びクララ・ピラティスが残してくれた’ギフト’を伝え続けるために、生涯ピラティスの旅は続いて行く。

2018

ピラティスバイブル上梓

ピラティスを理解するためには、ピラティスの歴史は外せない。なぜなら、ピラティス・メソッドを深く理解していくと、ジョセフ・ピラティスの生き様そのものであるからだ。ただ、ピラティスの歴史や真髄はほとんどが口伝で伝えられてきており、世界中には誤った情報が溢れ、特に英語圏以外で情報を得ることはさらに困難な状況となっている。
2017年のロリータ来日時に、出版のための長いインタビューをロリータに依頼し、歴史の全てを語ってもらった。ロリータやジョセフ・ピラティス、その他ピラティスの歴史を生きてきた先代たちに敬意と感謝の意を込め、これらをまとめた「ピラティスバイブル」は、2018年に出版された。

2020

パンデミックと
国際セッションの舞台裏

ある朝ロリータから電話がかかってきて言われた言葉に、一瞬言葉を失った。「英語で、世界中の人へ国際セッションを担当して欲しい。」
世界を瞬く間に襲ったパンデミック。この状況下で世界に先陣を切って立ち上がったのがロリータ・サン・ミゲェルであった。世界の人と一つになり、共有し、励まし合い、誰もがピラティスに取り組める場として、オンラインの教育の場であるLolita Pilates Goes Onlineを立ち上げた。
英語のセッションを国際的な立場で提供することは、考えてもいなかった。できる気は全くしなかったが、あなたならできるというろりーたの言葉を信じ、「英語でのピラティス」の準びに明け暮れた。死ぬほど緊張した初回のセッションは、相変わらずの英語の散々な出来栄えで終わってから無力感で座り込んでいた中、ロリータからの電話がかかってきた。「あなたは私のピラティスを最もよく理解している。そして、あなたがこの時間帯を考えて実施したクラスデザインは完璧だった。」。この言葉を聞き、ロリータに厳しいトレーニングの中で言われた、あることを思い出した。「ピラティスは、国際語です。言葉に関係なく、体現するものです。」

2021

Lolita’s Legacy™︎の
継承と、二度目の最終優勝受賞。東京へ。

パンデミックは世界を変えたが、私にとっても大きな変革の期間となった。国際セッションでは相変わらずの英語力にも関わらず最も人気のあるクラスの一つとなり、その中で、ピラティス氏の公式認定者であるロリータが残したいピラティスへの深い理解が認められ、Lolita’s Legacy™︎プログラムを日本領土において公式に継承することとなった。これは、日本だけではなく世界のピラティス界でも歴史的な締決となり、この功績が認められ、フィットネス業界誌NEXTにて、二度目のアワード最優秀賞も受賞した。
同年、Lolita’s Legacy™︎ Japanを設立し、日本で発展させるための基盤を創った。また、東京のトレーニングセンターとしてPilates Legacy®︎ Studioを設立。優秀なLolita’s Legacy™︎の卒業生が活躍できる場にもなっている。

2024

ロリータ・サン・ミゲェルの正式継承者へ

2024年2月、ロリータ・サン・ミゲェルより、世界に広がる数百名の弟子と、ピラティス業界の主要な人々へ、一通の公式なメールが送られた。そこには、ロリータという存在価値そのものの継承者が5名が紹介され、櫻井淳子もそのうちの一人として紹介された。ジョセフ・ピラティスの公式認定者が、弁護士による長い段取りを経て、このようにオフィシャルな契約と遺言を通してバトンを渡したということは、世界でも初めてのことだり、かつ、大きな出来事である。
これにより、活動の場は国際的な本部となり、ロリータピラティスの発展、及び、世界のピラティスの発展のために、ロリータおよび5名のメンバーと共に新たな取り組みをスタートした。時代が変わっても、変わることのない本物の価値と真髄を次世代へ残し発展させることをミッションとし、2005年に一人の体調不良の主婦としてピラティスに出会った時の情熱は一度も途絶えることなく、今も全身全霊でピラティスを生き甲斐として取り組んでいる。

女性がチャレンジするということ

あらゆる手段で取組む中、常にあるのは母・妻としての女性の立場。
ピラティスをスタートし、はじめて子どもを実家以外に預けた日。
言葉も十分に話す事ができない幼子が、泣きながら「お母さん頑張って」と手を振る姿を見た瞬間。
何があっても最高の学びを続けて行こうと 心に誓う瞬間が、何度も繰り返された。
義母の24時間体制での看病が続いた時。仕事も中止し病院に泊まり込んでの看病の中、ようやく回復傾向を見せた時。
渡米中に二度と会えない存在になったと知り、NYの街中で、ただ呆然と立ち尽くした。
女性が仕事をするということ、チャレンジをすると言うことは、多くの葛藤や胸の痛みも受け止めた上で、
その中でも夢や希望を持ち歩むことなんだと知った。

だから私は、「ピラティス指導者として生きたい」と
覚悟を決めたあなたを、全力で支えたい。
挑戦し続ける人生を、歩みましょう。

そして、共に本物のピラティスを後世へ継承してゆきましょう。